精神障害の労災認定による新たな法的リスクと企業の事前防止策
北岡社会保険労務士事務所 代表 社会保険労務士(元厚労省労働基準監督官)
北岡大介
障害の労災認定制度について盛んに取り上げられる契機となったのは、ご承知の通り電通に新卒入社した女性社員の痛ましい過労自殺事案です。入社後約8か月、部門配属後わずか3か月の勤務でありながら、労災認定後の臨検監督・強制捜査・略式請求・公判を経て有罪判決が確定。その理由として、申告労働時間と実際の在社時間とのギャップ(自己研鑽のためでなく業務での在社だったことが後に判明)、急激な労働時間の増加(100時間超残業)、上司等からのハラスメント的な発言が挙げられます。誰もが知る大手企業で報道も大々的でしたが、これは電通特有の話ではなくどんな企業にも起こり得る事案として、各社の人事担当者に問題意識を投げかけました。
業務中の事故などに対しては戦前から労災認定の枠組みがありましたが、精神障害については個別事案でしかなく、制度として確立したのは平成になってからです。特に平成23年12月に基準が改訂されてから申請・認定件数自体が急激に増加、平成28年度の最新の数字では申請1586件、認定498件と、認定前との比較でそれぞれ1.3倍、1.6倍となっています。
ここで認識すべきは、同申請件数の約87%、支給決定件数の約83%が被災労働者本人による療養補償給付・休業補償給付であり、長期化する傾向もあるという重要な事実です。つまり、マスコミが過労死や過労自殺を喧伝するために、精神障害、脳や心臓疾患による労災認定では被災者がなくなっているイメージが先行しがちですが実際は大部分が生存しており、メンタルヘルス休職・復職問題が地続きであることを意味しています。メンタル不調による私傷病休職社員は増加していますが、彼らが休職中、または休職期間満了前後に自分のメンタル不調は過重労働やパワハラによるものと主張、さかのぼって労災申請・認定されるケースも稀ではありません。「業務上疾病を理由とした療養期間中の解雇」を禁じる労働基本法19条が適用された東芝事件の判例もあり、企業実務への影響は多大なものがあります。
さて、精神障害の労災認定は、①業務によるストレス、②業務外によるストレス、③個体側の既往歴、アルコール依存状況などストレスに対する脆弱性、この3つの要素を複合的に判断する「ストレス脆弱性理論」という考え方が軸になっています。精神障害の発病はそもそも個体側の脆弱性が中心的な役割を果たしますが、問題は現状の精神医学ではその脆弱性を客観的に評価する測定技術がないことです。思えば申請者は入社当時から少し変わっていた、ごく当たり前な注意にも泣き出すなど過敏な反応をした、などという同僚の証言があっても、医師は人事の評価や印象論だけで「個体的要因があって~」といった診断書は書けない。そういう認定事例が、現状では一定件数あるということです。
強程度の「特別な出来事」は即時労災認定
また認定では業務上のストレスの過重性が認められる「特別な出来事」が重要なキーワードとなっています。厚労省が公表しているパンフレットでは「認定基準の対象となる精神障害の発病前おおむね6か月の間に、業務による強い心理的負荷が認められること」とありますが、その原因である特別な出来事の負荷の度合いを強・中・弱に分ける判断基準として策定された「業務による心理的負荷評価表」は、厚労省の叡智を結集した発明品とも言えるものです。即時に強とされるのは生死に関わる、あるいは極度の苦痛を伴う業務上の病気やけがなどですが、発病直前1か月当たりの時間外労働がおおむね160時間を超えるような極度の長時間労働も対象となります。中の出来事が複数重なったものなど多くの認定事例は、この評価表に基づき、特別な出来事の強・中・弱と時間外労働時間の組み合わせで決定されており、出来事のみで決定している事例は少ない印象です。
いくつかの認定事例を検証すると、慢性的な時間外労働以外でも、例えば新規システム開発に従事したSE職が納期の切迫や予想外のバグなどによって強いられた急激な仕事量の増加などは明確な認定の対象と分かります。またサービス残業は冒頭の電通の事例が典型ですが、企業側の勤怠管理が本当に正しいか、労基署は慎重に見極めています。平成13年4月6日付「労働時間の適正な把握のために使用者が講ずべき措置に関する基準」、いわゆる46通達の「自己申告により把握した労働時間と合致しているか否か、必要に応じた調査」が重要なのは言わずもがなです。
その他、在社時間は長いが昼寝などしている場合について、厚労省では「~労働密度が特に低い場合は~単純に時間外労働時間数のみで判断すべきではない」としているものの、裁判例の傾向を見ると厳しい対処ではなく緩やかな印象。労基署認定実務では在社中、労働者が客観的に使用者の指揮命令下に置かれているか否かが問われますが、ここで重視すべきは、その対象は一般職だけではなく残業代は貰えない管理者も含まれること。例えばほとんど趣味のように、通常業務後、命令されていないのに倉庫で1人で品出しをしていて脳疾患で倒れた管理職に労災認定が出る場合もあります。
一つ申し上げておきたいのは、精神障害の労災認定イコール会社が悪い、ブラック企業だ、ではないので卑下する必要はないことです。例えば会社の廊下で転んでけがをしたケースでも労災認定は出ます。会社内での通行も、立派に業務に関わる行動だからです。精神障害の労災認定において、いわゆる36協定違反や残業代未払いがなくても労災認定される場合は少なくありません。
尾尻佳津典・「日本の医療と医薬品の未来を考える会」代表(集中出版代表):「素朴な疑問ですが、講演中に何度か出てきた 『裁判』という言葉は、労働者が企業を訴えた裁判という意味ですか?『判決』についても教えてください。」
北岡:「本日お話しした事例は、主に国側が労災支給を払わないと決定した事案について、労働者が支払ってくださいと訴えた裁判であり、その判決です。」
井垣剛太郎 ㈱日本経営 東京支社 部長:「労災認定には様々な判断基準があることが分かりましたが、端的に理解するとすれば、心理的負担が強となる出来事がなく、実質的な残業時間が少なければ、全ては個人的な素質によるとの判断がなされると理解してよろしいですか?」
北岡:「裁判所も労基署も原因について判断することはないのですが、いずれにせよ不支給決定になることは間違いありません。」
児玉政彦 ㈱キノシタ・マネージメント 人事部労務課 課長:「精神疾患で休職した従業員が就業規則に基づく休職期間満了で退職、その後に労災認定された場合、給与補償は退職時まででよいのでしょうか? それ以降も継続することがあるのでしょうか?」
北岡:「非常に難しいですね。私傷病休職で退職された方が労災認定された、つまり私傷病ではなかったということになると、会社側の建て付けとしては就業規則に基づく自動退職なのですが、その前提が全て崩れてしまいます。労働契約関係は遡及して復活する。つまり継続していることになるので、賃金請求等は当然認められます。労災ですから一定の所得補償はされるのですが、その差額の請求は可能性として大いにあると言えます。」